言葉の意味が各人で全く違っているのではないかという説について

 言葉の意味が各人で全く違っているのではないかとする説がある。例えばAさんが「カブトムシ」と呼ぶものと、Bさんが「カブトムシ」と呼ぶものとでは全く違っているのではないかというものである。AさんとBさんは各々「カブトムシ」の入った箱をもっておりその中身は自分だけしか見えない。二人は口を揃えて「カブトムシ」と言うのであるが、各々が「カブトムシ」と呼ぶその箱の中身は全く違ったものかもしれない、ということ。

 この説で疑問なのは、言葉というものが全く独りで獲得されるかのような前提をもっていること。言葉というものは人から人に受け継がれていくものである。最初は親と子の関係のなかで懐胎されていくものだろうし、それから保育園の先生や友だち、見知らぬひと、あるいは本との関わりのなかで、すなわち共同的な営みのなかで言葉は獲得されていくのである(※だからこそ、共同的な営みから外れ孤立していくと世界の「意味」が分からなくなってくる)。もし全く誰とも関係しない個人がいるとしたら、彼は言葉を獲得しないであろう。

 だから、AさんとBさんの呼ぶ「カブトムシ」が全く違ったものであるかもしれないとする説は成り立たない。AさんとBさんの間にあるのは言葉の意味の「断絶」ではなく、言葉の意味の「ズレ」である。

Was vernünftig ist, wird wirklich, und das Wirkliche wird vernünftigについての二三の考察

 ヘーゲルの『法の哲学』(『Grundlinien der Philosophie des Rechts』)の序文での有名な一節。

 

 Was vernünftig ist, wird wirklich, und das Wirkliche wird vernünftig.

 

 よく目にする訳では「現実的なものは理性的であり、理性的なものは現実的である。」というものがある。ただ後に見るようにseinではなくwerdenなので「である」という静的な表現では汲み尽くせない、生成という動的な含みがある。

 中公クラシックスの藤野・赤沢訳では「理性的であるものこそ現実的であり、現実的であるものこそ理性的である。」となっている。「こそ」がついているが、これがどうしてついているのか分からない。際立たせるためだろうか。

 

以下、原文を見て私が気づいた点。

・istではなくwird(werden)

・wirklich(:現実的な)→wirken(:活動する、仕事する、作用する、影響するetc.)→Werk

・後文のdas Wirkliche(現実的なこと)がdie Wirklichkeit(現実)でないこと。あくまで「的なもの(こと)」であって「現実そのもの」ではないこと。

 

 以上の点を踏まえて私なりに試訳してみると次のようになる。「理性的なものは、現実的になり、現実的なものは理性的になる。」。「なる」と訳すと未来にそう「なる」というニュアンスがあるようにおもえるが、ヘーゲルの言いたいことは過去にもそう「なって」いたし、今もそう「なって」いるし、未来でもそう「なって」いるということ。

哲学は経験するもの

 哲学あるいは思想を勉強していると「経験しないと分からない」と言われることがある。しかしそれは哲学あるいは思想についても言えることで、哲学あるいは思想の凄さというのは実際にそれを読むなり議論するなりして経験しないと分からない。そして哲学書は、プラトンの対話篇やデカルトの『省察』そしてヘーゲルの『精神現象学』がそうであるように、思考の歩みを読者に経験させるようなものになっている。
 もっと言ってしまえば経験という概念そのものを扱っているのも哲学であるのだから、「経験しないと分からない」という言いは哲学に対しては失当だろう。