テツノート

哲学にかんすることを書きます。哲学はおもにヘーゲルについて勉強しています。未熟なので是非ご教授ください。

新たに哲学を建てるときの哲学史

 新たに哲学を建てるとき、わざわざ新たに建てるのであるから、それ以前の哲学とは違うものでなければならないし、もっと言えば、それ以前の哲学より一層よいものであるのでなければならない。そうでなければ、わざわざ新たに哲学を建てる必要はない。そうすると、独創的な哲学者が組む哲学史は、当然のことながら、その哲学者の哲学を頂点とするものであることになる。そのとき頂点となる哲学以外の哲学の順序を歴史的な順序と重ねるか、あるいはまた別の順序で並べるか、それとも歴史性とは関係なくまったく別様に配置するか、それは新たに哲学を建てる哲学者によって様々であろう。しかし、繰り返すが、わざわざ新たに哲学を建てるならばその哲学が、哲学史において最もよいものであるのでなければならない。

 そうすると、或る独創的な哲学者が組む哲学史は、彼の哲学体系のなかで組まれたものであって、別の独創的な哲学者がその哲学体系のなかで組む哲学史とは、体系間の根本的な違いがあると考えなければならない。すると、体系の外にいる者が、その体系のなかにある哲学史を批判しても無駄であることになる。そうすると、批判するときは自分の哲学体系のなかで新たな哲学史を自ら組み立てていることになる。

掟の門前

 カフカの短編(あるいは挿話)のなかに『掟の門前』という話がある。あらすじは次のようなものである。ある男が掟の門のなかへ入ろうとする。しかし、その門の前には門番が立っており、入れてくれない。また、もし入ったとしてもまた次の門が待ち構えており、それは延々に続くと言う。男はそのまま掟の門の前で待ち続けるのだが、次第に衰えていく。命が尽きようとするとき、男は門番にあることを尋ねる。「なぜ自分以外の誰もこの門に入ろうとしなかったのか」と。門番は答える。「この門はお前のためだけのものだ」と。

 よく知られているように、カフカユダヤ人であり、この『掟の門前』の話は、ユダヤ教における神と人との間の無際限の分裂と、その不条理について描かれてある。

 ヘーゲルは『小論理学』の205節の補遺において次のように言う。「入り口に立っているものこそ、しばしば最も不十分なものなのである」と。この言葉は、『精神現象学』の「観察する理性」においてユダヤ民族について言及する箇所を思い出させる。そこでは次のように書かれている。「ユダヤ民族については、救いの門 der Pforte des Heilsのすぐ前にいるという、まさにその理由で、最も済度しがたいもの das verworfensteであり、またそうであったと言うことができる。この民族は、もともとそう在るべきであったもの、つまり、自己の本質 Selbstwesenheitを、自分のものにしないで、それを自分の彼方へ jenseits置きちがえてしまった。」*1*2と。つまり、ユダヤ教は神を極度に絶対化し、それゆえ神を有限な人間とは切り離された彼岸に置いてしまう。そうして、神と人との間に無際限の分裂を作ってしまった。ユダヤ教のような神の把握は、神の正しい把握に限りなく近づいている。しかしだからこそ、彼岸と此岸の間に超えがたい壁があるのである。これは『掟の門前』の話に通ずるものがある。

 さらに言えば、上に引用した『小論理学』と『精神現象学』における二つの言い回しは、『フィヒテシェリングの哲学体系の差異』における次の言葉の別の角度からの言い方と言うこともできよう。すなわち「もっとも生き生きとした全体性は、最高の分裂からの自己回復によってのみ可能である」*3という言い回しである。「入り口に最も近いものは入り口から最も離れている」ということと、「入り口から最も離れているものは入り口に最も近い」ということ、この二つの見方が同時に成り立つのである。

 実際、ヘーゲルにおける神の把握は神を此岸に取り戻す作業であるが、それはユダヤ教的な彼岸と此岸の最高度の分裂を契機とすることが不可欠なのである。このことは、先ほど引用した『精神現象学』の文に続く文章を見てみれば分かる。最後にそれを引用して終わることにする。「この民族は、この外化によって、もし自らの対象をもう一度自分のなかに取りもどすことができるならば、存在という直接〔無媒介〕態のなかに止まっている場合よりも、一層高い生活を自分のものとすることができよう。というのも精神は、自己に帰るときの対立が大きければ大きいだけ、一層偉大であるからである。」*4

*1:樫山訳『精神現象学 上』,387-388頁

*2:ドイツ語は筆者

*3:山口祐弘,星野勉,山田忠彰訳『理性の復権 フィヒテシェリングの哲学体系の差異』17頁

*4:上掲書,388頁

カントにおける判断力

1、規定的判断力と反省的判断力

 カントの言う「判断力」には二つある。一つは規定的判断力と呼ばれ『純粋理性批判』に見られるような悟性に仕える判断力のことである。これは既にアプリオリな形式としての普遍が与えられているので、ただ対象や行為をそれらの形式に適応させ規定する能力である。もう一つは反省的判断力である。これは『判断力批判』における判断力であり、規定的判断力とは異なり予め与えられている判断の範型はない。現に現れているだけの生の素材から普遍的なものを発見するような働きがここでの判断力となる。つまり対象に意味や価値を付与する働きである。以上のことから、規定的判断力は対象を普遍に当てはめる能力。そして反省的判断力は対象から普遍を発見する能力であると言える。

 

2、反省的判断力における美学的判断力と目的論的判断力

 反省的判断力には美学的判断力と目的論的判断力がある。美学的判断力において、人が何かを美しいと判定するとき、何らかの利害関係や意図が存在するわけではなく、ただそれ自身の性質ゆえに美しいと判定される。また美的判断は趣味判断でもある。この趣味とは意に適うことである。言い換えれば自らの目的に合うこと、つまり合目的性を意味する。例えば人がある花を美しいと判断するとき、その花は彼の意を満たす目的のために咲いているのではないにもかかわらず彼の意に適ってしまう。これを目的なき合目的性と呼ぶ。さらに客観的に目的が前提されていないにもかかわらず観察者にとって合目的であることから主観的合目的性と呼ばれる。美学的判断力では自然は実質もなくただ意に適うだけの主観的合目的性に限られていた。しかし例えば「全ての生命現象は生命の維持という目的に基づいている」といった考えのように、目的論的判断力では自然そのものが客観的合目的性として判断される。

 以上をまとめると、美学的判断力では美的判断は自然が偶然観察者の意に適ったに過ぎず、自然がそもそもどのようなものなのかは問題ではない。一方目的論的判断力では自然そのものの客観的な合目的性が問題となる。これが両者の違いである。

 

参考文献

石川文康,『カント入門』,ちくま新書

ヘーゲルにおける堕罪論

1、はじめに

 『旧約聖書』の「創世記」における有名な堕罪の伝説は悪の問題を扱っていると言える。ヘーゲルは、その堕罪の伝説に則りながら、しかしヘーゲル自身の新しい読みに変えて、悪の問題を説明していく。

 ここでは、まず「創世記」における堕罪の伝説の概略を述べ、その後ヘーゲルの読みに則して解説していく。

 

2、堕罪の伝説

 神は天と地を創造したあと、人を創り、東に設けたエデンの園に人を住まわせた(2:7-2:8)。そしてエデンの園の中央に、生命の樹と善悪を知る樹(知恵の樹)とを植えた(2:9)。神は人に、エデンの園のどの樹の実をとって食べてもよいが善悪を知る樹からは食べてはならなず、それを食べたら死ぬだろうと言った(2:16-2:17)。それから神は人のために助け手として女を創った(2:22)。ところでこのとき、人(男)とその妻(女)とは裸であったが、まだ恥ずかしいとは思わなかった(2:25)。

 神が女の他に創っていた動物のなかで蛇が最も狡猾であった(3:1)。蛇は女に、善悪を知る樹の実を食べても死にはしない(3:4)、ただそれを食べると神のように善悪を知ることを神は知っている(3:5)のだと言った。そこで女は善悪を知る樹の実を食べ、夫である男にもそれを与え、男はそれを食べた(3:6)。すると、二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り恥ずかしく思ったので、いちじくの葉を腰に巻いた(3:7)。神は二人が約束を破り、善悪を知る樹の実を食べたことを知って、女には子を産むときの苦しみを与え(3:16)、男には苦しみながら地から食物を獲り(3:17)、額に汗してパンを食べ、やがれは土に帰る(3:19)ようにした。さらに、人は生命の樹の実を獲って食べ、永遠の命を得るかもしれなかったので(3:22)、神は人をエデンの園から追放し、土を耕させた(3:23)。

 

3、ヘーゲルにおける堕罪論

 堕罪の伝説をみたところで、次にヘーゲルの読みに則して、人間の悪の問題について考えてみる。ここで参照するヘーゲルのテクストは『小論理学』の二四節の補遺三である。この二四節はこれを含め三つの補遺 Zusatzがあり、他の節に比べて分量が多い。そのなかの一部分である。補遺であるから、これは直接ヘーゲルの言葉なのではなく、聴講者の講義ノートから付加されたものである。とは言え、かなり分かりやすくヘーゲル自身の哲学のエッセンスが反映されているように思えるので、ヘーゲルの考えとして一応扱っておく。

 ヘーゲルはこの堕罪の伝説に、人間における自然的統一から自己分裂への過程を見出す。ヘーゲルは認識の形式を、最初の形式である直接知と、反省的認識と哲学的認識の三つに分ける(126-127頁)。最初の直接知という形式には、道徳的に見て無邪気とおもわれるようなもの全て、それから宗教的感情、率直な信頼、愛、誠実、自然的信仰などが入る(127頁)。直接知では直接的な自然的統一の段階にある。堕罪の伝説では、善悪を知る樹の実を食べる以前の状態である。しかし、これが反省的認識や哲学的認識へと進むと、この直接的な自然的統一の外へ出ることになる(127頁)*1。反省的認識とは無自覚の状態から自覚的になるということであり、これによって人間は動物から区別される。しかし、この「意識の目覚め」(129頁)は「対立へ足をふみ入れること」(129頁)であり、反省的認識において、人間は分裂する;もっと正確に言えば、人間が人間に成る。堕罪の伝説では、善悪を知る樹の実を食べ、自分が裸であることを知ったときに、自然的統一の外へ出て、分裂したことになる。ヘーゲルはこのことを受け次のように言う。「目覚めた意識の最初の反省は、人間が自分がはだかであることに気づいたということであった。(中略)羞恥のうちには、自然的および感性的存在からの人間の分離がある。」(129頁)。つまりヘーゲルはアダム(男)とエバ(女)が、善悪を知る樹の実を食べたことを、極めて人間的な自己意識の目覚めと捉えている。だから、ヘーゲルはこの意識の目覚めを人間にとって内在的なものと看做す。どういうことかというと、堕罪の伝説では、それは蛇という外的な要因によって引き起こされた偶然的な出来事として描かれていたのだが、ヘーゲルは、人間がこのように自然的統一を去ること、すなわち意識に目覚めることは「人間自身のうちにあるのであって、このことは、あらゆる人間のうちで繰り返されている歴史である。」(129頁)と理解する。

 さらにヘーゲルは、神が人間に投げかけた呪い(3:16-3:19)を、「自然にたいする人間の対立」として読む(129頁)。たとえば、労働とは、自然にあるだけでは人間にとって活用できない(食べられない、使いものにならない等)自然のものを、人間にとって活用できるものに変容させることであり、自然との分裂の克服である(129-130頁)。

 またヘーゲルは、人が善悪を知る樹の実を食べたことで我らの一人のようになったと神が言っている節(3:22)を受けて、認識が神的なものであると言う(130頁)。そして、人間に生命の樹の実を食べさせないように、そのままエデンの園から追放したこと(3:23)は、「人間は自然的な側面からすれば、有限で死すべきものではあるが」、心的な認識はもったままであるのだから「認識においては無限であるということである」と解釈している(130頁)。ここでは哲学における伝統的な考え方を旧約聖書から読み込んでいる。

 さらにヘーゲルは原罪論、すなわち人間が生来的に悪であるという考えを論じる。キリスト教(厳密には西方のキリスト教*2)の原罪論では、「最初の人間の偶然的な行為」(130頁)すなわちエバが蛇にそそのかされて善悪を知る樹の実を食べ、アダムがそれに続いて食べたという偶然的な出来事によって、人間が生来的に悪となってしまったと考えられるが、ヘーゲルは先にも述べたようにそのようには解しない。「人間が生来悪であるということは、精神の概念のうちに含まれていて、人間はそれ以外にありようがいない」(130頁)とヘーゲルは言う。人間に成ることは「意識の目覚め」であり、その意識の目覚めによって、分裂(分離)が生じる。人間が自然的統一から去るということは、人間が自己意識をもって外界から自己を区別するということなのである(131頁)。そして、この分裂した状態にあるからこそ、ここで人間は自分で自分の目的を作り出し、自分のうちから行為の素材を取り出すのであって、このように特殊のうちで自分のみを知り自分のみを意欲する主観性こそが悪なのである(131頁)。この主観性を馴染み深い言葉に言い換えれば利己性と言ってもよいだろう。自然的統一においては無邪気さのなかで他と一体になっているのであるから、利己的に振る舞うことはない。しかし、自己意識をもち、自己を他から区別することで、自然的統一が一転、分裂の段階へとなり、そこに主観性という悪が生じることになる。悪、すなわち分裂の段階はさらに否定され、精神は自分自身の力によって統一へと復帰するが、それはここでは論じない。

 以上のように、ヘーゲルは『旧約聖書』における堕罪の伝説を、自分の哲学を通して読み直すことをしている。講義で話された内容であるだけに、非常にわかりやすく、さらにヘーゲル哲学の重要なエッセンスも含まれている。

 

参考文献

ヘーゲル著,松村一人訳,『小論理学(上)』,岩波書店,1979

*1:哲学的認識はおそらく反省的認識のより高次の認識であり、再び統一へと回帰した段階であると考えられるが、なぜ自然的統一の外へ出ると言われているかと言うと、哲学的認識は反省的認識をうちに含むからであると考えられる。

*2:正教会における「罪」の理解は日本正教会Webページを参照。

日本語における意味の限定の仕方の一例。全体的か部分的か。ー例文「数えられない物質」ー

 例えば、「数えられない物質」と言うと、1)物質全般が数えられないもの(全体的)か、2)物質のなかにある数えられないもの(部分的)か、の二つの意味が考えられるとおもうが、この混同を避けて2)の意味に限定したい場合は「数えられないような物質」とすればよい。まだ意味の限定としては弱いだろうか。「物質のなかの数えられないもの」とすれば一目瞭然だろうか。
 発音に関してだと、1)の意味の場合だと比較的平坦に発音するが、2)だと「ない」あるいは「ない」の「い」を強調するようにおもう。

山口祐弘著『意識と無限ーヘーゲルの対決者たちー』(近代文藝社,1994)を読んで

 山口祐弘著『意識と無限ーヘーゲルの対決者たちー』(近代文藝社,1994)からのまとめ。

 

・カントの実践哲学における自由ないし自律の他律への転化(53-54頁)

 カントの実践哲学は、理性と感性との対立を前提とし、自由を感性的自然(必然性)からの離脱、道徳法則に基づく感性の支配のうちに認める。しかし前提された理性と感性との対立は、道徳法則に基づく実践が世界に実現されるという保障を与えず、有徳の士が幸福を得るという希望も認めない。したがって、カントは神の存在を要請し神への信仰を道徳的実践の支えとする。この信仰によって人間は徳のある行為の報酬として幸福を希望することができるとされる。このことは、自由ないし自律が他律に転化する可能性を含んでいる。

真全体と悪全体

 ヘーゲルは真なるものは全体であるとする。個の存在はその全体に支えられているのであって、全体が個に先立つとされる。
 こうしたヘーゲルの考えを全体主義的な国家観と呼ぶひともいる。確かに国家は個人よりより先なるものではあるが、真の全体ではない。というのも国家は有限なものであって、諸国のなかの一つにすぎない。いわば悪全体である。真の全体とは真無限のことである。この違いを理解しておかなければならない。
 真全体にとって私たち個人はどうでもよい。契機となる個が必要なだけでそれは人間が滅びようとも在り続ける。一方で、悪全体すなわち或る特定の国家にとって個人は必要不可欠である。日本という国家が存続するにはそこに住まうひとびとや日本語を用いるひとびと、あるいはこの地で日々歴史を編むひとびとが存在しなければならない。したがって国家にとって個人は無視できない。国家的な全体主義が個人をのっぺらぼうにすれば国家も同様にのっぺらぼうになり解体するだろう。
 国家という全体を論じるときは、真全体とは別のものとして論じる必要があるし、国家はあくまでも有限な個であるということを忘れてはならない。