テツノート

哲学にかんすることを書きます。哲学はおもにヘーゲルについて勉強しています。未熟なので是非ご教授ください。

ヘーゲルの社会哲学と社会の発展

 

 ヘーゲルが社会を哲学的に論じた著作として『法の哲学』がある。この著書のスタンスは序文に明確に述べられている。まずは、そのスタンスを丁寧に追っていく。

 『法の哲学』はヘーゲル自身によれば「あるべき国家を構想するなどという了見からは最も遠いもの」(27頁)である。それはどういうことであろうか。ヘーゲルの哲学観にそのヒントがある。ヘーゲルによれば哲学の課題は「存在するところのものを概念において把握する」(27頁)ことである。そして、「その時代を思想のうちにとらえたもの」(27頁)である。だから、「哲学がその現在の世界を飛び越え出る」(27頁)ということはない。さらに、ヘーゲルの哲学観について詳しく見ていくと、「哲学は世界の思想である以上、現実がその形成過程を完了しておのれを仕上げたあとではじめて、哲学は時間のなかに現れる」(29-30頁)と言う。これはよく知られたヘーゲルの言葉である「ミネルヴァのふくろうは、たそがれがやってくるとはじめて飛びはじめる」(30頁)につながる考え方である。すなわち、哲学は現実において在るところのものを概念において把握するのであり、それが行われるには、ある程度の成熟が必要となるのである。例えば、或る仕事をしている最中、忙殺されているとその仕事全体を把握することは困難だが、ある程度仕事が仕上がってくると全体的にそれまでの過程を眺望できるのと同じことである。したがって、哲学は最も始めのものでありながら最も後から出てくると言える。

 以上のことから分かるように、ヘーゲルは『法の哲学』のなかで何か革命的に煽動したり、ユートピアを語ったりということはしない。社会が在るべき姿ではなく、社会が実際にそう在る姿を把握するのである。それをヘーゲルは次のような言葉で表わす、「ここがロドスだ、ここで跳べ」(27頁)。これはイソップ物語に出てくる話の一節で、それによれば或るほら吹きがいて、彼はロドス島で凄い跳躍をしてみせたと自慢したと言う、それを聞いていた人が「ここがロドスだ、ここで跳べばいい」とほら吹きに言ったという話である。ヘーゲルはこの言葉を文字ってまた次のように言い直す、「ここにローズ(薔薇)がある、ここで踊れ」。何かニーチェを思わせる文句だが、それはよい。つまり、これらの言葉でヘーゲルが言いたいのは、どこか手の届かないところに在るべき理想郷があるのではなく、現にここに理想郷(「ロドス島」、「ローズ」)が実現されているのだからここで自らを発揮して生きろ(「跳べ」、「踊れ」)ということである。だから、『法の哲学』の使命は、在るべき社会を提示することではなく、現にそう在る社会を概念において把握し、われわれが彼岸ではなく此岸で生きるように導くことである。

 そうすると、ヘーゲルはかなり保守的な考えであるように思える。そういうイメージはヘーゲルにつきまとっているし、実際そういう側面は明らかにある。ただし、保守的な面だけであろうか。筆者には、そうではないように思われる。というのも、ヘーゲルは現にそう在る国家を概念において把握しているつもりなのかもしれないが、ヘーゲルが『法の哲学』のなかで論じたような国家は当時のプロイセンとは異なるものであったし、ましてやそれ以降の歴史のなかで実現されたとも思えない。すると、ヘーゲルの社会哲学ないし国家哲学は近代という時代の把握でありながら、それを超えていくような論理も同時に含まれているということになる*1。だからこそ、マルクスに繋がって行くことが可能なのであろう。それにしても、ヘーゲルは現にそう在る国家を概念において把握すると言っておきながら何故現にそう在ること以上のことを語ってしまったのか。それは概念に答があるのだろう。つまり、概念にはそもそもそのうちに発展*2の論理が組み込まれている。したがって、国家や社会を概念把握するということは国家や社会の発展の論理も同時に見出してしまうということなのである。だから精確に言えば、ヘーゲルは、現にそう在ること以上のことを語っているように見えて、実は現にそう在ることのうちに初めから含まれていた現にそう在ることを超える論理を語っているのである。したがって、ヘーゲルの社会哲学は保守的でありながら発展的であると言えるだろう。

 

 

参考文献

ヘーゲル著,藤野渉・赤沢正敏訳『法の哲学 Ⅰ』,中公クラシックス,2011

加藤尚武著,『ヘーゲル哲学の形成と原理』,未来社,1983

*1:このようなヘーゲルが近代把握と同時にそれを超える超近代の論理を含みもっていたということは様々なところで言われているが、例えば『ヘーゲル哲学の形成と原理』22頁。

*2:ヘーゲルがどのような考えであれ、発展という言葉には筆者としてはさしあたり進歩の意味を含ませてはいない。