神と世界あるいは本体と現象という捉え方への批判

 神と世界あるいは本体と現象という捉え方をする場合、本体は真実であって現象は人間の認識にのみ帰属することになる。そうすると本体と現象とは断絶していることになる。現象を世界と言い換えるならば、世界は人間の認識にのみ帰属することになる。そのため創造ということが語られない。

 そこで、現象を神(本体)の現われであるとすることで創造ということを語ることができるようにおもえる。しかし本体が本体である以上それ自身で自足したものでなければ本体とは言えない。そうすると神(本体)は神(本体)自身で自足しているのだから現われる必要はない。もっと言えば、本体と現象という構図で考える以上、神(本体)は現象してはならない。したがって、ここでも本体と現象とは断絶していることになり、創造と現象世界が語ることができない。つまり本体と現象という構図自体が成り立たなくなる。

 結局のところ、本体と現象という構図で把握する限り神を正しく捉えたことにはならない。神は現象のみでもなければ本体のみでもない。むしろ自己を限定しながらも自己に還って行くまさにその運動のことだと言う他ない。だからその運動の契機のいずれかを切りとって神を本体だの現象だのと言うのは悟性の誤りである。ただし、ここでは二重の神の問題が生じているようにおもえるが、それは人間の認識が悟性の契機を必要とすることに由来する。悟性は運動そのものである神を分節化するからである。しかしそこから理性へと高まり全体の相のもとで運動として捉えることへと進んで行かなければならない。