映画『神は死んだのか』についての批評

 映画『神は死んだのか』を観に行った。公式サイトの紹介文には「クリスチャンの大学生と無神論者の哲学教授との“神の存在証明”を巡る大激論の行方を描いた」とある。タイトルを初めて見たとき、「神は死んでない」という方向性で描いていくのだろうという予感を持った。私は哲学科の学生であるので講義のなかで神を巡る議論に遭遇したことがあるが(ただし直接的な議論の応酬になることはほとんどなく、レスポンスペーパー等で学生が疑問を投げかけるという形が多い)、基本的には神の存在を肯定する教授と自然科学的見地に依拠してそれを否定する学生という構図が多い印象を持っていたので、この映画はこれが逆になっているところが面白いと当初思った。とりわけこの問題の場合、自然科学的見地に権威のある現代において、教授よりも知識の少ない学生が肯定派に立つことはかなりリスクの高いことなので挑戦的だと思われた。ただ、この紹介文から分かる通り、肯定側は信仰の立場だから結論についてはそれほど期待はしなかった。それでも、いわゆる神の存在論的証明の議論史などを概略的になぞっていったり有意義な議論が展開されることに幾ばくかの期待はあった。また映画の冒頭では様々な人種や立場や宗教(特にイスラム教)の人々が映され、これらの人たちがそれぞれの視点から神の存在証明を巡る議論に関わり、議論が展開されて行くかのように思わせ、とても期待度が上がった。

 

○議論のきっかけ

 まず議論のきっかけは、主人公のクリスチャン学生が無神論者である哲学教授のクラスをとってしまうことから始まる。この教授は自分の講義を円滑に進めるために、不要な議論を省きたいと言う。その不要な議論とは神の存在についての議論であり、最初の講義を始める前に「God is dead.」と紙に書いて提出するように生徒たちに強要する。信仰の自由に関わるような、こんな強要が許されるのだろうかとも思ったが、この映画は「全米の大学で実際に起こった数々の訴訟事件をベースに映画化」(公式サイト)されているようなので、このことも本当にあったことなのかもしれない。しかし主人公は真面目で経験なクリスチャンなのでどうしても「God is dead.」とは書けなかった。それで教授は講義時間の一部を与えるので、そこで神の存在を証明してみせよと提案する。最終的な審議は聴講生たちにまかせることを条件に、主人公はその提案に乗る。

 

○信仰対自然科学

 議論は自然科学的見地に依拠する無神論の教授にクリスチャンの学生が応酬するという形である。教授は妄信的に自然科学を信じていて、それらの自然科学者の意見を引用するだけなので、その時点でこんな人が教授で良いのかと思ってしまう。それゆえ学生がするのは、もっぱらホーキンズやドーキンス無神論的な主張に対する反論である。だから過去の偉大な哲学者たちが積み上げてきたいわゆる神の存在論的証明を巡る豊かな議論群には一切触れられない。もちろん現代で権威を持つ自然科学の意見を吟味することは現代において神の存在を肯定しようとする人には避けられないことで重要な意義を持つが、自然科学側の教授からしてどこか妄信的なので議論に張り合いがない。ときおり面白い応酬を見せることもあるが、それも相手の揚げ足取りでしかなく、神の存在を積極的に肯定する理由にはならない。なぜこうも議論が皮相的なのかというと、結局教授は子どもの頃のある出来事をきっかけに神を憎んでいただけだからである。学生の最終的な落としどころは人間には自由意志があり、信仰を持つか持たないかの選択という試練を神に課せられているということだったように曖昧ですが記憶しています。

 

○視点の貧しさ

 議論は基本的には主人公と教授との一騎打ちなので、映画の冒頭で登場してきた人々は議論には関わらない。それにこれはとあるクラスでの出来事であって、他の主要な登場人物たちは中国人の学生以外はクラス外の人たちなので、この議論を聴いてすらいない。それゆえ議論は当初の期待とは反対に多様な意見が交わされる活溌なものにはなっていない。とは言え、クラス外の出来事も神の存在に関わることなので、そこでの葛藤が議論に間接的にでも深みを出すことができればよいのだが、実はそれもないと言っていい。というのもこの映画は、ご都合主義的に、あるいは<奇跡的に>キリスト教という一つの宗教に皆が収束していくからである。イスラム教徒と思われた女性も実はイスラム教徒である家族に隠れてキリスト教を信仰していた。彼女はそのことが親にバレて家を追い出されてしまうので、イスラム教キリスト教との間の対話というものはない。最終的な結論が信仰に向かうのは百歩譲って良いとしても、そうであるなら、同じ神を信仰していながら異なる宗教との間に生じてしまっている軋轢や同じ宗教でありながら異なる教義を持つがゆえに生じる問題など、<神の信仰>を巡る議論にもそれなりの回答を提出することが誠実さであると思うのだが、この映画はそのような細かいけれど深刻な問題を捨象して、抽象的な高揚感のなかで「God's Not Dead.」という合い言葉を繰り返して終わる。音楽も随所にあからさまに情緒を煽るような使い方で、それが頂点に達するのがラストのライブシーン。その前から違和感が蓄積されていた私はここに来ていよいよ追いていかれ、悟りを拓いてしまいそうなくらい冷めてしまった。

 

○描かれる人間像の貧しさ

 この映画の最大の問題点は描かれる人間、とりわけ否定派の人間の人としての薄っぺらさである。教授の薄っぺらさはすでに述べたことから明らかだが、他にも否定派は典型的に浅ましい人間として描かれるか、死という強力な武器を目の前に突きつけられて半ば強引に改心させられる。神の存在を肯定することは、人間をも肯定することであり、しかも抽象的な人間ではなくて、様々なことを考え感じる具体的で複雑な人間を肯定することであるはずだが、この映画はその人物描写が致命的に浅い。これもラストの抽象的な高揚感に現われているように、神に対する考えの浅さに由来するのかもしれない。

Do or DIe

「お菓子をくれなきゃいたずらするぞ!」 、血を流し包帯を巻いた子どもたちにそう言われた都内在住、自称ヒーロー業の80代男性アンパンマン氏。この状況を彼は何十年待ち望んだことか。彼が人気者だった戦後の時代はとうにすぎ、今や飽食の時代。自分の顔を必要とする餓えた子供たちはもういない。それはアンパンマン氏にとって望ましい状況であるにもかかわらず、どこか寂しさを抱えていた。それが今まさに眼前に自分の顔を必要としている子どもが現れたのである。子どもたちは血を流し包帯を巻いており、今にも死んでしまいそうに彼にはおもえた。時代に取り残されたアンパンマン氏はハロウィンを知らなかった。氏はおもむろに自分の顔の側部を引きちぎり、それを子どもに差し出した。子どもたちはそれを見るなり絶叫し、逃げ出した。呆然とするアンパンマン氏。次の日、小学校では自分の顔を引きちぎるリアルな化け物が出たという話題で持ちきりだった。それからしばらくして、近所の土手に顔が部分的に欠けている男性の遺体が発見された。死後だいぶ経つようで、遺体は腐りきっていた。後のバイキンマンである。

神と世界あるいは本体と現象という捉え方への批判

 神と世界あるいは本体と現象という捉え方をする場合、本体は真実であって現象は人間の認識にのみ帰属することになる。そうすると本体と現象とは断絶していることになる。現象を世界と言い換えるならば、世界は人間の認識にのみ帰属することになる。そのため創造ということが語られない。

 そこで、現象を神(本体)の現われであるとすることで創造ということを語ることができるようにおもえる。しかし本体が本体である以上それ自身で自足したものでなければ本体とは言えない。そうすると神(本体)は神(本体)自身で自足しているのだから現われる必要はない。もっと言えば、本体と現象という構図で考える以上、神(本体)は現象してはならない。したがって、ここでも本体と現象とは断絶していることになり、創造と現象世界が語ることができない。つまり本体と現象という構図自体が成り立たなくなる。

 結局のところ、本体と現象という構図で把握する限り神を正しく捉えたことにはならない。神は現象のみでもなければ本体のみでもない。むしろ自己を限定しながらも自己に還って行くまさにその運動のことだと言う他ない。だからその運動の契機のいずれかを切りとって神を本体だの現象だのと言うのは悟性の誤りである。ただし、ここでは二重の神の問題が生じているようにおもえるが、それは人間の認識が悟性の契機を必要とすることに由来する。悟性は運動そのものである神を分節化するからである。しかしそこから理性へと高まり全体の相のもとで運動として捉えることへと進んで行かなければならない。

アウグスト・フォン・コッツェブーとヘーゲル

 A.W.シュレーゲルに批判され、ヘーゲルにも「下痢便」と揶揄された(1803年11月16日付書簡)当時の人気俗流作家A.V.コッツェブーであるが、彼は1819年に熱狂的な愛国者の青年に殺されたコッツェブーであるようだ。

 この事件は当時大きな衝撃を与え、論争を巻き起こしたようだが、ヘーゲルの『法の哲学』(1821年)の執筆背景にももちろんこの事件がある。例えば、序文(20頁)や§一四〇(〔d〕,376頁)でも明示的にでこそないが示唆的に触れられている。ただし、明示的にでないということによって、この特定の事件とは別のしかし類似した事件への批判ともなり得る。ヘーゲルのこの事件に対する心持ちを簡単に言うならば、ローゼンクランツが言うように、ヘーゲルはこのような「思慮を欠いた興奮」や「秘密の徒党行動」を嫌ったのである(『ヘーゲル伝』,289頁)。

 

参考文献

A.W.シュレーゲル著,大澤慶子訳,「ドイツ文学の現状概観ー抄」(『ドイツ・ロマン派全集第九巻 無限への憧憬ードイツ・ロマン派の思想と芸術』所収),国書刊行会,1984

ヘーゲル著,藤野渉・赤松正敏訳,『法の哲学 Ⅰ』,中央公論新社,2011

K.ローゼンクランツ著,中埜肇訳,『ヘーゲル伝』,みすず書房,1983

西田『善の研究』における善の概説と批判

1)概観

 西田は『善の研究』において倫理学の諸説を振り返りながら、自らの活動説を説く。そこで語られる西田にとっての善は「実在の根本たる統一力の発現」であるところの意志の活動のことである(188頁)。つまり意識には何らかの「目的観念」が「先天的要求」として現れ、その目的が実現された時、言い換えれば統一されたとき、その行為は善である(188頁)。善行為の動機となる要求は何か外的に立てられた規則なのではなく、個々人の内面から起こるものであり、それは「直接経験」において「心の奥底より現われ来」るものである(202頁)。そのため善行為の目的は「個人性の実現」とも言える(208頁)。ただしこの個人性は利己的なものとは異なる(209頁)。というのも、各々の意識現象は「彼此関係」や「一生」という空間・時間的な関係において成立する(194頁)のであり、「社会的意識」の一部をなす「我々の個人的意識」が要求するものはほとんど「社会的」だからである(214頁)。そう考えると、直接経験において現れてくる善の要求は、その個人が生きる社会の倫理観に影響されながら、内面に刻まれたものだと考えられる。ただしそれは当の個人の経験の中で育まれるのだから、人生のなかで「種々の経験と境遇とに従うて種々の発展をなす」(207-208頁)。

 

2)批判

 以上見てきたように、西田は善の要求の内容を直接経験という仕方で捉えようとするが、理性によって捉えることも可能であろうし、むしろ理性によって捉える方が個人性の実現となるのではないか。というのも、理由も分からず浮かんできた要求によって行為するよりも、自分で理由が分かっているうえで行為する方が自分らしい行為(西田の言葉で言えば「個人性の実現」)であるからである。もちろん、日常の場面で個人性を実現するときに、こういう理由があるからこうしようというような過程を自覚的に辿ることは稀であろうが、そうした理由は内面化されているだけで日常的な場面に現れてきているのである。ただやはり、理由の系列が延々と続くような場合もあるだろうし、はっきり言えばその方が多い。そういう場合は西田の言うようにまさに「心の奥底より現われ来」るとしか言いようのないものであるが、それは理由を知性によって捉えている場合よりはレベルが低いと言わざるを得ない。西田自身、意識の自由について「理由なくして働くから自由であるのではない、能く理由を知るが故に自由であるのである」(153頁)と言っている。つまり、個人性の実現たる善行為が自由な行為であるならば、理由を能く知っている行為でなければならない。以上のことから、西田が「倫理学の諸説 その三」において批判した合理説はまったく批判されるわけではない。もちろん、そこで合理説の例としてあげられているクラークやストア学派に賛同するというわけではないし、そもそも彼らが真に合理的なのかどうかは疑わしい。言いたいことは、知性によって捉えられたことが行為として現れることが、一層高い意味での自己実現であるということである。もちろん、先も述べたように行為の要求の多くは、「心の奥底より現われ来る」としか言いようのないものである。しかしそれは、知性によって捉えられた要求よりは一層低い意味での自己実現である。

 

参考文献

西田幾多郎著,『善の研究』(改版),岩波書店,2012

「お名前をおうかがいしてもよろしいですか」

 「お名前をおうかがいしてもよろしいですか」と言われて「はい」とだけ答える人はあまりいない。字面だけ受けとれば、「よい」のか「よくない」のかを聞かれているのだから、「はい」か「いいえ」で答えるだけでよくて、そこから「では、お名前を教えてください」とでも聞き返されるという回り道をする。しかし通例、「お名前をおうかがいしてもよろしいですか」と言われれば、回り道をせずにすぐに「某です」と答える。

 こうした言葉の使用一般に何か名称はあるのだろうか。

ヘーゲルの社会哲学と社会の発展

 

 ヘーゲルが社会を哲学的に論じた著作として『法の哲学』がある。この著書のスタンスは序文に明確に述べられている。まずは、そのスタンスを丁寧に追っていく。

 『法の哲学』はヘーゲル自身によれば「あるべき国家を構想するなどという了見からは最も遠いもの」(27頁)である。それはどういうことであろうか。ヘーゲルの哲学観にそのヒントがある。ヘーゲルによれば哲学の課題は「存在するところのものを概念において把握する」(27頁)ことである。そして、「その時代を思想のうちにとらえたもの」(27頁)である。だから、「哲学がその現在の世界を飛び越え出る」(27頁)ということはない。さらに、ヘーゲルの哲学観について詳しく見ていくと、「哲学は世界の思想である以上、現実がその形成過程を完了しておのれを仕上げたあとではじめて、哲学は時間のなかに現れる」(29-30頁)と言う。これはよく知られたヘーゲルの言葉である「ミネルヴァのふくろうは、たそがれがやってくるとはじめて飛びはじめる」(30頁)につながる考え方である。すなわち、哲学は現実において在るところのものを概念において把握するのであり、それが行われるには、ある程度の成熟が必要となるのである。例えば、或る仕事をしている最中、忙殺されているとその仕事全体を把握することは困難だが、ある程度仕事が仕上がってくると全体的にそれまでの過程を眺望できるのと同じことである。したがって、哲学は最も始めのものでありながら最も後から出てくると言える。

 以上のことから分かるように、ヘーゲルは『法の哲学』のなかで何か革命的に煽動したり、ユートピアを語ったりということはしない。社会が在るべき姿ではなく、社会が実際にそう在る姿を把握するのである。それをヘーゲルは次のような言葉で表わす、「ここがロドスだ、ここで跳べ」(27頁)。これはイソップ物語に出てくる話の一節で、それによれば或るほら吹きがいて、彼はロドス島で凄い跳躍をしてみせたと自慢したと言う、それを聞いていた人が「ここがロドスだ、ここで跳べばいい」とほら吹きに言ったという話である。ヘーゲルはこの言葉を文字ってまた次のように言い直す、「ここにローズ(薔薇)がある、ここで踊れ」。何かニーチェを思わせる文句だが、それはよい。つまり、これらの言葉でヘーゲルが言いたいのは、どこか手の届かないところに在るべき理想郷があるのではなく、現にここに理想郷(「ロドス島」、「ローズ」)が実現されているのだからここで自らを発揮して生きろ(「跳べ」、「踊れ」)ということである。だから、『法の哲学』の使命は、在るべき社会を提示することではなく、現にそう在る社会を概念において把握し、われわれが彼岸ではなく此岸で生きるように導くことである。

 そうすると、ヘーゲルはかなり保守的な考えであるように思える。そういうイメージはヘーゲルにつきまとっているし、実際そういう側面は明らかにある。ただし、保守的な面だけであろうか。筆者には、そうではないように思われる。というのも、ヘーゲルは現にそう在る国家を概念において把握しているつもりなのかもしれないが、ヘーゲルが『法の哲学』のなかで論じたような国家は当時のプロイセンとは異なるものであったし、ましてやそれ以降の歴史のなかで実現されたとも思えない。すると、ヘーゲルの社会哲学ないし国家哲学は近代という時代の把握でありながら、それを超えていくような論理も同時に含まれているということになる*1。だからこそ、マルクスに繋がって行くことが可能なのであろう。それにしても、ヘーゲルは現にそう在る国家を概念において把握すると言っておきながら何故現にそう在ること以上のことを語ってしまったのか。それは概念に答があるのだろう。つまり、概念にはそもそもそのうちに発展*2の論理が組み込まれている。したがって、国家や社会を概念把握するということは国家や社会の発展の論理も同時に見出してしまうということなのである。だから精確に言えば、ヘーゲルは、現にそう在ること以上のことを語っているように見えて、実は現にそう在ることのうちに初めから含まれていた現にそう在ることを超える論理を語っているのである。したがって、ヘーゲルの社会哲学は保守的でありながら発展的であると言えるだろう。

 

 

参考文献

ヘーゲル著,藤野渉・赤沢正敏訳『法の哲学 Ⅰ』,中公クラシックス,2011

加藤尚武著,『ヘーゲル哲学の形成と原理』,未来社,1983

*1:このようなヘーゲルが近代把握と同時にそれを超える超近代の論理を含みもっていたということは様々なところで言われているが、例えば『ヘーゲル哲学の形成と原理』22頁。

*2:ヘーゲルがどのような考えであれ、発展という言葉には筆者としてはさしあたり進歩の意味を含ませてはいない。