西田『善の研究』における善の概説と批判

1)概観

 西田は『善の研究』において倫理学の諸説を振り返りながら、自らの活動説を説く。そこで語られる西田にとっての善は「実在の根本たる統一力の発現」であるところの意志の活動のことである(188頁)。つまり意識には何らかの「目的観念」が「先天的要求」として現れ、その目的が実現された時、言い換えれば統一されたとき、その行為は善である(188頁)。善行為の動機となる要求は何か外的に立てられた規則なのではなく、個々人の内面から起こるものであり、それは「直接経験」において「心の奥底より現われ来」るものである(202頁)。そのため善行為の目的は「個人性の実現」とも言える(208頁)。ただしこの個人性は利己的なものとは異なる(209頁)。というのも、各々の意識現象は「彼此関係」や「一生」という空間・時間的な関係において成立する(194頁)のであり、「社会的意識」の一部をなす「我々の個人的意識」が要求するものはほとんど「社会的」だからである(214頁)。そう考えると、直接経験において現れてくる善の要求は、その個人が生きる社会の倫理観に影響されながら、内面に刻まれたものだと考えられる。ただしそれは当の個人の経験の中で育まれるのだから、人生のなかで「種々の経験と境遇とに従うて種々の発展をなす」(207-208頁)。

 

2)批判

 以上見てきたように、西田は善の要求の内容を直接経験という仕方で捉えようとするが、理性によって捉えることも可能であろうし、むしろ理性によって捉える方が個人性の実現となるのではないか。というのも、理由も分からず浮かんできた要求によって行為するよりも、自分で理由が分かっているうえで行為する方が自分らしい行為(西田の言葉で言えば「個人性の実現」)であるからである。もちろん、日常の場面で個人性を実現するときに、こういう理由があるからこうしようというような過程を自覚的に辿ることは稀であろうが、そうした理由は内面化されているだけで日常的な場面に現れてきているのである。ただやはり、理由の系列が延々と続くような場合もあるだろうし、はっきり言えばその方が多い。そういう場合は西田の言うようにまさに「心の奥底より現われ来」るとしか言いようのないものであるが、それは理由を知性によって捉えている場合よりはレベルが低いと言わざるを得ない。西田自身、意識の自由について「理由なくして働くから自由であるのではない、能く理由を知るが故に自由であるのである」(153頁)と言っている。つまり、個人性の実現たる善行為が自由な行為であるならば、理由を能く知っている行為でなければならない。以上のことから、西田が「倫理学の諸説 その三」において批判した合理説はまったく批判されるわけではない。もちろん、そこで合理説の例としてあげられているクラークやストア学派に賛同するというわけではないし、そもそも彼らが真に合理的なのかどうかは疑わしい。言いたいことは、知性によって捉えられたことが行為として現れることが、一層高い意味での自己実現であるということである。もちろん、先も述べたように行為の要求の多くは、「心の奥底より現われ来る」としか言いようのないものである。しかしそれは、知性によって捉えられた要求よりは一層低い意味での自己実現である。

 

参考文献

西田幾多郎著,『善の研究』(改版),岩波書店,2012