2013-01-01から1年間の記事一覧
A.W.シュレーゲルに批判され、ヘーゲルにも「下痢便」と揶揄された(1803年11月16日付書簡)当時の人気俗流作家A.V.コッツェブーであるが、彼は1819年に熱狂的な愛国者の青年に殺されたコッツェブーであるようだ。 この事件は当時大きな衝撃を与え、論争を巻…
1)概観 西田は『善の研究』において倫理学の諸説を振り返りながら、自らの活動説を説く。そこで語られる西田にとっての善は「実在の根本たる統一力の発現」であるところの意志の活動のことである(188頁)。つまり意識には何らかの「目的観念」が「先天的…
「お名前をおうかがいしてもよろしいですか」と言われて「はい」とだけ答える人はあまりいない。字面だけ受けとれば、「よい」のか「よくない」のかを聞かれているのだから、「はい」か「いいえ」で答えるだけでよくて、そこから「では、お名前を教えてくだ…
ヘーゲルが社会を哲学的に論じた著作として『法の哲学』がある。この著書のスタンスは序文に明確に述べられている。まずは、そのスタンスを丁寧に追っていく。 『法の哲学』はヘーゲル自身によれば「あるべき国家を構想するなどという了見からは最も遠いもの…
新たに哲学を建てるとき、わざわざ新たに建てるのであるから、それ以前の哲学とは違うものでなければならないし、もっと言えば、それ以前の哲学より一層よいものであるのでなければならない。そうでなければ、わざわざ新たに哲学を建てる必要はない。そうす…
カフカの短編(あるいは挿話)のなかに『掟の門前』という話がある。あらすじは次のようなものである。ある男が掟の門のなかへ入ろうとする。しかし、その門の前には門番が立っており、入れてくれない。また、もし入ったとしてもまた次の門が待ち構えており…
1、規定的判断力と反省的判断力 カントの言う「判断力」には二つある。一つは規定的判断力と呼ばれ『純粋理性批判』に見られるような悟性に仕える判断力のことである。これは既にアプリオリな形式としての普遍が与えられているので、ただ対象や行為をそれら…
1、はじめに 『旧約聖書』の「創世記」における有名な堕罪の伝説は悪の問題を扱っていると言える。ヘーゲルは、その堕罪の伝説に則りながら、しかしヘーゲル自身の新しい読みに変えて、悪の問題を説明していく。 ここでは、まず「創世記」における堕罪の伝説…
例えば、「数えられない物質」と言うと、1)物質全般が数えられないもの(全体的)か、2)物質のなかにある数えられないもの(部分的)か、の二つの意味が考えられるとおもうが、この混同を避けて2)の意味に限定したい場合は「数えられないような物質」とすれ…
山口祐弘著『意識と無限ーヘーゲルの対決者たちー』(近代文藝社,1994)からのまとめ。 ・カントの実践哲学における自由ないし自律の他律への転化(53-54頁) カントの実践哲学は、理性と感性との対立を前提とし、自由を感性的自然(必然性)からの離脱、道…
ヘーゲルは真なるものは全体であるとする。個の存在はその全体に支えられているのであって、全体が個に先立つとされる。 こうしたヘーゲルの考えを全体主義的な国家観と呼ぶひともいる。確かに国家は個人よりより先なるものではあるが、真の全体ではない。…
言葉の意味が各人で全く違っているのではないかとする説がある。例えばAさんが「カブトムシ」と呼ぶものと、Bさんが「カブトムシ」と呼ぶものとでは全く違っているのではないかというものである。AさんとBさんは各々「カブトムシ」の入った箱をもっておりそ…
ヘーゲルの『法の哲学』(『Grundlinien der Philosophie des Rechts』)の序文での有名な一節。 Was vernünftig ist, wird wirklich, und das Wirkliche wird vernünftig. よく目にする訳では「現実的なものは理性的であり、理性的なものは現実的である。」…
哲学あるいは思想を勉強していると「経験しないと分からない」と言われることがある。しかしそれは哲学あるいは思想についても言えることで、哲学あるいは思想の凄さというのは実際にそれを読むなり議論するなりして経験しないと分からない。そして哲学書は…