言葉の意味が各人で全く違っているのではないかという説について

 言葉の意味が各人で全く違っているのではないかとする説がある。例えばAさんが「カブトムシ」と呼ぶものと、Bさんが「カブトムシ」と呼ぶものとでは全く違っているのではないかというものである。AさんとBさんは各々「カブトムシ」の入った箱をもっておりその中身は自分だけしか見えない。二人は口を揃えて「カブトムシ」と言うのであるが、各々が「カブトムシ」と呼ぶその箱の中身は全く違ったものかもしれない、ということ。

 この説で疑問なのは、言葉というものが全く独りで獲得されるかのような前提をもっていること。言葉というものは人から人に受け継がれていくものである。最初は親と子の関係のなかで懐胎されていくものだろうし、それから保育園の先生や友だち、見知らぬひと、あるいは本との関わりのなかで、すなわち共同的な営みのなかで言葉は獲得されていくのである(※だからこそ、共同的な営みから外れ孤立していくと世界の「意味」が分からなくなってくる)。もし全く誰とも関係しない個人がいるとしたら、彼は言葉を獲得しないであろう。

 だから、AさんとBさんの呼ぶ「カブトムシ」が全く違ったものであるかもしれないとする説は成り立たない。AさんとBさんの間にあるのは言葉の意味の「断絶」ではなく、言葉の意味の「ズレ」である。