ヘーゲルにおける堕罪論

1、はじめに

 『旧約聖書』の「創世記」における有名な堕罪の伝説は悪の問題を扱っていると言える。ヘーゲルは、その堕罪の伝説に則りながら、しかしヘーゲル自身の新しい読みに変えて、悪の問題を説明していく。

 ここでは、まず「創世記」における堕罪の伝説の概略を述べ、その後ヘーゲルの読みに則して解説していく。

 

2、堕罪の伝説

 神は天と地を創造したあと、人を創り、東に設けたエデンの園に人を住まわせた(2:7-2:8)。そしてエデンの園の中央に、生命の樹と善悪を知る樹(知恵の樹)とを植えた(2:9)。神は人に、エデンの園のどの樹の実をとって食べてもよいが善悪を知る樹からは食べてはならなず、それを食べたら死ぬだろうと言った(2:16-2:17)。それから神は人のために助け手として女を創った(2:22)。ところでこのとき、人(男)とその妻(女)とは裸であったが、まだ恥ずかしいとは思わなかった(2:25)。

 神が女の他に創っていた動物のなかで蛇が最も狡猾であった(3:1)。蛇は女に、善悪を知る樹の実を食べても死にはしない(3:4)、ただそれを食べると神のように善悪を知ることを神は知っている(3:5)のだと言った。そこで女は善悪を知る樹の実を食べ、夫である男にもそれを与え、男はそれを食べた(3:6)。すると、二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り恥ずかしく思ったので、いちじくの葉を腰に巻いた(3:7)。神は二人が約束を破り、善悪を知る樹の実を食べたことを知って、女には子を産むときの苦しみを与え(3:16)、男には苦しみながら地から食物を獲り(3:17)、額に汗してパンを食べ、やがれは土に帰る(3:19)ようにした。さらに、人は生命の樹の実を獲って食べ、永遠の命を得るかもしれなかったので(3:22)、神は人をエデンの園から追放し、土を耕させた(3:23)。

 

3、ヘーゲルにおける堕罪論

 堕罪の伝説をみたところで、次にヘーゲルの読みに則して、人間の悪の問題について考えてみる。ここで参照するヘーゲルのテクストは『小論理学』の二四節の補遺三である。この二四節はこれを含め三つの補遺 Zusatzがあり、他の節に比べて分量が多い。そのなかの一部分である。補遺であるから、これは直接ヘーゲルの言葉なのではなく、聴講者の講義ノートから付加されたものである。とは言え、かなり分かりやすくヘーゲル自身の哲学のエッセンスが反映されているように思えるので、ヘーゲルの考えとして一応扱っておく。

 ヘーゲルはこの堕罪の伝説に、人間における自然的統一から自己分裂への過程を見出す。ヘーゲルは認識の形式を、最初の形式である直接知と、反省的認識と哲学的認識の三つに分ける(126-127頁)。最初の直接知という形式には、道徳的に見て無邪気とおもわれるようなもの全て、それから宗教的感情、率直な信頼、愛、誠実、自然的信仰などが入る(127頁)。直接知では直接的な自然的統一の段階にある。堕罪の伝説では、善悪を知る樹の実を食べる以前の状態である。しかし、これが反省的認識や哲学的認識へと進むと、この直接的な自然的統一の外へ出ることになる(127頁)*1。反省的認識とは無自覚の状態から自覚的になるということであり、これによって人間は動物から区別される。しかし、この「意識の目覚め」(129頁)は「対立へ足をふみ入れること」(129頁)であり、反省的認識において、人間は分裂する;もっと正確に言えば、人間が人間に成る。堕罪の伝説では、善悪を知る樹の実を食べ、自分が裸であることを知ったときに、自然的統一の外へ出て、分裂したことになる。ヘーゲルはこのことを受け次のように言う。「目覚めた意識の最初の反省は、人間が自分がはだかであることに気づいたということであった。(中略)羞恥のうちには、自然的および感性的存在からの人間の分離がある。」(129頁)。つまりヘーゲルはアダム(男)とエバ(女)が、善悪を知る樹の実を食べたことを、極めて人間的な自己意識の目覚めと捉えている。だから、ヘーゲルはこの意識の目覚めを人間にとって内在的なものと看做す。どういうことかというと、堕罪の伝説では、それは蛇という外的な要因によって引き起こされた偶然的な出来事として描かれていたのだが、ヘーゲルは、人間がこのように自然的統一を去ること、すなわち意識に目覚めることは「人間自身のうちにあるのであって、このことは、あらゆる人間のうちで繰り返されている歴史である。」(129頁)と理解する。

 さらにヘーゲルは、神が人間に投げかけた呪い(3:16-3:19)を、「自然にたいする人間の対立」として読む(129頁)。たとえば、労働とは、自然にあるだけでは人間にとって活用できない(食べられない、使いものにならない等)自然のものを、人間にとって活用できるものに変容させることであり、自然との分裂の克服である(129-130頁)。

 またヘーゲルは、人が善悪を知る樹の実を食べたことで我らの一人のようになったと神が言っている節(3:22)を受けて、認識が神的なものであると言う(130頁)。そして、人間に生命の樹の実を食べさせないように、そのままエデンの園から追放したこと(3:23)は、「人間は自然的な側面からすれば、有限で死すべきものではあるが」、心的な認識はもったままであるのだから「認識においては無限であるということである」と解釈している(130頁)。ここでは哲学における伝統的な考え方を旧約聖書から読み込んでいる。

 さらにヘーゲルは原罪論、すなわち人間が生来的に悪であるという考えを論じる。キリスト教(厳密には西方のキリスト教*2)の原罪論では、「最初の人間の偶然的な行為」(130頁)すなわちエバが蛇にそそのかされて善悪を知る樹の実を食べ、アダムがそれに続いて食べたという偶然的な出来事によって、人間が生来的に悪となってしまったと考えられるが、ヘーゲルは先にも述べたようにそのようには解しない。「人間が生来悪であるということは、精神の概念のうちに含まれていて、人間はそれ以外にありようがいない」(130頁)とヘーゲルは言う。人間に成ることは「意識の目覚め」であり、その意識の目覚めによって、分裂(分離)が生じる。人間が自然的統一から去るということは、人間が自己意識をもって外界から自己を区別するということなのである(131頁)。そして、この分裂した状態にあるからこそ、ここで人間は自分で自分の目的を作り出し、自分のうちから行為の素材を取り出すのであって、このように特殊のうちで自分のみを知り自分のみを意欲する主観性こそが悪なのである(131頁)。この主観性を馴染み深い言葉に言い換えれば利己性と言ってもよいだろう。自然的統一においては無邪気さのなかで他と一体になっているのであるから、利己的に振る舞うことはない。しかし、自己意識をもち、自己を他から区別することで、自然的統一が一転、分裂の段階へとなり、そこに主観性という悪が生じることになる。悪、すなわち分裂の段階はさらに否定され、精神は自分自身の力によって統一へと復帰するが、それはここでは論じない。

 以上のように、ヘーゲルは『旧約聖書』における堕罪の伝説を、自分の哲学を通して読み直すことをしている。講義で話された内容であるだけに、非常にわかりやすく、さらにヘーゲル哲学の重要なエッセンスも含まれている。

 

参考文献

ヘーゲル著,松村一人訳,『小論理学(上)』,岩波書店,1979

*1:哲学的認識はおそらく反省的認識のより高次の認識であり、再び統一へと回帰した段階であると考えられるが、なぜ自然的統一の外へ出ると言われているかと言うと、哲学的認識は反省的認識をうちに含むからであると考えられる。

*2:正教会における「罪」の理解は日本正教会Webページを参照。