掟の門前

 カフカの短編(あるいは挿話)のなかに『掟の門前』という話がある。あらすじは次のようなものである。ある男が掟の門のなかへ入ろうとする。しかし、その門の前には門番が立っており、入れてくれない。また、もし入ったとしてもまた次の門が待ち構えており、それは延々に続くと言う。男はそのまま掟の門の前で待ち続けるのだが、次第に衰えていく。命が尽きようとするとき、男は門番にあることを尋ねる。「なぜ自分以外の誰もこの門に入ろうとしなかったのか」と。門番は答える。「この門はお前のためだけのものだ」と。

 よく知られているように、カフカユダヤ人であり、この『掟の門前』の話は、ユダヤ教における神と人との間の無際限の分裂と、その不条理について描かれてある。

 ヘーゲルは『小論理学』の205節の補遺において次のように言う。「入り口に立っているものこそ、しばしば最も不十分なものなのである」と。この言葉は、『精神現象学』の「観察する理性」においてユダヤ民族について言及する箇所を思い出させる。そこでは次のように書かれている。「ユダヤ民族については、救いの門 der Pforte des Heilsのすぐ前にいるという、まさにその理由で、最も済度しがたいもの das verworfensteであり、またそうであったと言うことができる。この民族は、もともとそう在るべきであったもの、つまり、自己の本質 Selbstwesenheitを、自分のものにしないで、それを自分の彼方へ jenseits置きちがえてしまった。」*1*2と。つまり、ユダヤ教は神を極度に絶対化し、それゆえ神を有限な人間とは切り離された彼岸に置いてしまう。そうして、神と人との間に無際限の分裂を作ってしまった。ユダヤ教のような神の把握は、神の正しい把握に限りなく近づいている。しかしだからこそ、彼岸と此岸の間に超えがたい壁があるのである。これは『掟の門前』の話に通ずるものがある。

 さらに言えば、上に引用した『小論理学』と『精神現象学』における二つの言い回しは、『フィヒテシェリングの哲学体系の差異』における次の言葉の別の角度からの言い方と言うこともできよう。すなわち「もっとも生き生きとした全体性は、最高の分裂からの自己回復によってのみ可能である」*3という言い回しである。「入り口に最も近いものは入り口から最も離れている」ということと、「入り口から最も離れているものは入り口に最も近い」ということ、この二つの見方が同時に成り立つのである。

 実際、ヘーゲルにおける神の把握は神を此岸に取り戻す作業であるが、それはユダヤ教的な彼岸と此岸の最高度の分裂を契機とすることが不可欠なのである。このことは、先ほど引用した『精神現象学』の文に続く文章を見てみれば分かる。最後にそれを引用して終わることにする。「この民族は、この外化によって、もし自らの対象をもう一度自分のなかに取りもどすことができるならば、存在という直接〔無媒介〕態のなかに止まっている場合よりも、一層高い生活を自分のものとすることができよう。というのも精神は、自己に帰るときの対立が大きければ大きいだけ、一層偉大であるからである。」*4

*1:樫山訳『精神現象学 上』,387-388頁

*2:ドイツ語は筆者

*3:山口祐弘,星野勉,山田忠彰訳『理性の復権 フィヒテシェリングの哲学体系の差異』17頁

*4:上掲書,388頁